夏休みも残り数日。CASAには、宿題の追い込みにやってくる子どもたちが目立ちます。私の小中学校時代も、残り数日になってから宿題をあわててやった記憶があります。私は小中学校の夏休みを、母の故郷のあった新潟県の田園風景の広がる田舎町で、夏休み初日から最終日まで丸々過ごしました。母は4人兄弟だったので私のいとこは計13人(男子8人・女子5人)。合わせて母は末っ子で上に3人の兄がいて、長兄とは約20才離れていました。そのため一番上のいとこは私より15才年上で、私が小学校低学年の時には、社会人・大学生・高校生のお姉さん・お兄さんがたくさんいました。田舎の実家には祖父母と長兄の奥さん・長男、そして近くに次兄一家が住んでいました。次兄一家には男子4兄弟がいたので、夏休み中、遊んでくれるお兄さんがたくさんいました。
その中でも、東京で働いている長兄の伯父と三兄の伯父が実家に集合するお盆の時期は、特別な
「大きな家族」となりました。祖父は私が小学2年生の時に他界しましたが、いつも「囲炉裏(いろり、台所の床を四角に切り抜いて、火を焚き料理をする場所)」の特等席に座り、家を守っている感じでした。祖母はすこぶる優しい人で、とても面倒見のよい人でした。長兄の伯父が、お盆に帰省して来るとそれまで夏の暑さで少しだらけていた家の中がピッリッと引き締まったように感じました。見た目もどっしりしていて「おお(大)きおじちゃん」と呼んでいました。その奥さんの伯母は、とても働き者で、いつも「もんぺ(農家の作業着)」を履いて動き回っていた印象です。次兄の伯父は、駅前で「油屋(プロパンガス等の販売)」と呼ばれるお店を開いていました。この伯父は、剣道の達人・とてもハンサムで「礼拝(らいはい、駅の名前)のおじちゃん」と呼んでいました。駅の真ん前なので、お店の休憩所にはいつも地域の人が座って賑やかでした。その輪の中心には、座談の名手の伯母が座っていました。三兄の伯父は、年齢の関係もあってか「ちい(小)ちゃおじちゃん」と呼ばれていました。フットワークが良く帰省すると地元の旧友に声をかけ、盆踊りでは先頭になって踊っていました。奥さんはゆったりとした包容力のある人でした。母ですが、いとこたちからは「ねえちゃん」と呼ばれていました。子ども心には、この呼び名は不思議でしたが、長兄の長女とは年も近くこう呼ばれていたのでしょう。私の父もお盆にはやって来ました。これらの大人たちといとこたちが全員集合するお盆の時期には、約20人の「
大きな家族」を体験することができました。また、田舎では全く知らない人でもすれ違う人たちがみんな、「おめさんは、どこん子だいね?(あなたはどこの家の子ですか?)」と言って声をかけてくれました。
これらの経験が私の人間力形成には、良い方向に大きく影響たと感じています。少子化の昨今は、このような「大きな家族」はほとんどなくなっています。そこでCASAでは、
「大きな家族」を体験できる「地域の実家」になりたいと考えています。また、田舎のように地域の子どもたちに声をかけ、挨拶できる関係作りも目指しています。私の小学校時代の夏休みの宿題の絵日記には、いとこのお姉さん・お兄さんが描いてくれた力作が並んでいました。そのお返しに、CASAで私は小中学生の夏休みの宿題を楽しみながら手伝っています。
小沼 好宏