中学3年生と国語の問題集を解いていました。その中で鷲田清一さん(哲学者)の「転換期を生きるきみたちへ~中高生に伝えておきたい大切なこと~」という文章に出会いました。
地域の中で
協同が衰退していった様子を論理的に展開していました。CASAの活動テーマ「地域の実家再生、『いつもそこにある!いる!』づくり」にも共通する考えなので一部抜粋してご紹介します。
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私たちが享受してきた「安楽」というものは、実は私たち自身のある能力喪失と裏腹なものです。それは、人が生き物として存(ながら)えてゆくために、日々、他の人たちと
協同しつつしなければならないこと、例えば水、食材の調達と料理、排泄物の処理、出産と育児、教育、看病、看取り、防災・防犯、もめ事処理などを、ほぼ全面的に行政や企業が提供するサービスに負うようになっているということです。これらの営みは、かつては
地域共同体をなす一群の人びとが
自ら協同してあたっていたものです。人びとは、社会を「近代的」なものに改造してゆくなかで、それらを一定の社会システムに委託する方式に切り換えてゆきました。調理から医療、教育までそれに当たる専門人材と専門施設とを国家的に養成・設置し、それらによるサービスを、住民たちが税金もしくは料金を支払うことによって享受する形にしたのです。一世紀半ほどかけて整備されてきたその過程は、同時に人びとがそれらを自力で行う能力を失ってゆく過程でもありました。そうして人びとはいつのまにかに、それらを
自力で協同して行う共同体の構成員から、それらを
社会サービスとして消費する「顧客」になりきってしまったのです。
……このところ、折に触れて思い出す言葉があります。数学者の森田真生さんがツイッターで、周防大島(すぼうおおしま)の農業者の方から聞いたこととして、次のような言葉を紹介しています。「命に近い仕事ほどお金が動かない」ということです。これはつまり、
よいコミュニティというのは本来、消費活動が少ないものだということでしょう。ちょっと助けて、ちょっと手伝ってと言えば、なんとなく誰かの手が伸びてくる。困ったことがあれば誰かに教えてもらえる、足りないものがあれば誰かに貸してもらえる、用事ができたら誰かに子どもを見ていてと頼むことができる。そういう
じかの交換の中に身を置いている暮らしに、森田さんは注目したのです。
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便利になった現在、より専門的なことは社会システムに委託し、より身近なことは地域の中で協同するというのが望ましい姿だと思います。そのためにも地域で自主的に協働するという力は維持したいものです。「
地域や
協同という助け合い(=ちょっと助けて、ちょっと手伝って)を大切にし実践したい」という思いでCASAを運営しています。私自身が、この地域で育ち、育てられ、今でも助けられています。そんな
地域の循環の一つとして、CASAが若者たちの成長を支援する「飛翔の場」になりたいと考えています。この文章を一緒に読んだ中学3年生たちは、かつての「ちょっと助けて」の生活を経験していないのでピンとこなかった部分もあったようです。しかしながら、このような文章を中学生の時に読むこと、そしてCASAでの体験で、
地域や
協同について何かを感じてくれると信じています。
小沼 好宏